今日の音について説明します
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最近、ピーターセンゲの
「持続可能な未来へ」 という本を読んでいました。 ピーターセンゲは, アップルを始め、アルコア、GEなど多くの企業のコンサルティングを勤めた、 ドラッカーと同様、アメリカの経営学者です。 システムシンキングという概念を発明した人でもあります。 システムシンキングとは、物事をシステムとして捉え、 その要素間の因果関係をグラフとして表し 分析を行う、今では当たり前になってしまった考え方です。 持続可能性という言葉は、 最近良く耳にするようになりましたが、 要は自然とともに共存できる社会に徐々に 移行しましょう、 その可能性を追求しましょうという意味です。 エコという概念は80年代の高度経済成長期 の公害の代償として作り出された言葉です。 自分は、21世紀は持続可能な循環型社会が到来する と信じているところがあります。 それは司馬遼太郎の言葉からも伺えます。 以下引用 私には21世紀のことなど、とても予測できない。 ただ、私に言えることがある。 それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。 人間は───繰り返すようだが───自然によって生かされてきた。 古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。 このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。 ───人間こそ、いちばんえらい存在だ。 という、思い上がった考えが頭をもたげた。 20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。 同時に、人間は決しておろかではない。 思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。 つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。 ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、 科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、 再び自然をおそれるようになった。 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、 21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。 「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」 と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、 君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。 そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。 そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。 とあります。 司馬遼太郎は過去の歴史の膨大な資料から、 21世紀を生きる若者にこのような言葉を残しました。 未来はどのようなものか予測ができませんが、 どうせ向くなら前を向いていようと思う今日この頃です。 ![]() ![]() |
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